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キャンパスライフ

教員のエッセイ

「山路来てなにやらゆかし」

    ときには芝生を闊歩するムクドリの群れにまぎれこんで、かたやヒヨドリには精一杯に気を使いながら、そして仲間同士ではある距離を保ちつつ、今年もツグミがやって来ている。祖父や父親からはツグミがいかに美味しいかという話を何度か聞いた記憶がある。そして禁止される以前の話であるが、田舎にあった実家の近所に住んでいた子供らの中にはかすみ網を使ってこれを捕まえていた者たちもいた。だが今の私にとっては、ツグミはそろそろ学期は終わりだよとその季節を告げる野鳥である。卒業論文とか修士論文を早くまとめさせないといけないよとか、試験の採点を早く終わらせなさいと警告してくれる野鳥である。ただしムクドリやヒヨドリとは違って、私はツグミの鳴声を聞いたことがない。鳴かないがゆえに、口をつぐむがゆえに、ツグミと呼ばれるそうだが、本当のところはよく分からない。しかし、一言も発せぬままに警告を発しているところからすれば、この鳥、なかなかの指導者・教育者のように思えてくる。同じ周期で、あるいは同じリズムで生活をしてくれている野鳥がいるような、そういう四季のある国に生まれてきたのはひとつの幸せだろうか。


    それでは学期のはじまりを意識させるのは何か?私の場合にはスミレ草である。毎年目につくようになるのは、年度末の学会や研究会に出かけて、授業の準備をしている頃である。人目を避けるようでもあり、控えめでとても謙虚な、小さいけれども清純な草花、というような印象を私は幼少の頃から持っているが、どうやら西洋でもそのように思われている。いい歳のおじさんがスミレを語るのは多少不気味でもあるが、フランスでは私よりも年配の方々も含め5人のおじさん達と昼食後のカフェでスミレについてわいわいがやがやと熱く語り、午後の始業が何時間も遅れたことがあった。ジョセフィーヌがスミレを愛し、その夫のナポレオンもこれを終生愛するようになったとか。日常目にするスミレの種類が違うのだろうけど、見た目だけではなくてその香りについても彼らがたびたび言及したのは私にとってはちょっとした驚きだった。その時の私は、芭蕉の俳句を紹介したように思う。そして、女性の可憐な美しさをスミレに喩えることも同じように行われていることが明らかになった(サクラの話もしたけれど、ちょっと通じなかった)。


写真1 スミレ草/深江キャンパスにて
写真1   スミレ草/深江キャンパスにて

    一昨年だったか、理科の授業でスミレの花の構造を調べていた娘から、「距(きょ)」というものについて質問されたのだが何も答えられず、父親の権威はもろくも崩れた。茎があり、ガクがあり、花弁がついているだけだと思っていたら、それらとは別に距があるのだという。質問はこの距が何のためについているのか、その働きについてであったのだが、私にはその存在すら意識できていなかった。教科書の記述を見てもにわかには信じられない気持ちになったのであるが、私が間違っていることだけは明らかだった。深い紫色をした花びらは5枚ついていて、一枚が他よりもかなり大きく、それが下を向いている。正面から見ると花は左右対称である。それが若干うつむきかげんに咲いていて、そのたたずまいに可憐な雰囲気を感じてしまっているのであるが、距はその後ろ側、茎の下側に確かに存在した。ラッパに喩えれば吹くところである。花びらと同じ紫色をしており、どうやら下を向いた大きめの花弁とつながっているのだった。そこには蜜が溜まっているということを後に娘から教えてもらった。「謙虚」とか「可憐」とか言いながら、その質問を受けた時の私には、ユリを小さくしたものというくらいの認識しかなかったのだろう(虚ではなくて距をつかれたのであるが、もしかして、ユリのことも怪しいかも)。
    思っていた以上に複雑なスミレの花を改めて見つめていると、大工さんが材木に直線を引く時に使っていた墨入れ(墨壷)がその語源であるという説が、なんだか説得力を持ってくるように思えるのであった。


写真2 スミレの横顔、放物線を描いている茎の下に距がある。
写真2 スミレの横顔、放物線を描いている茎の下に距がある。

    さて、野原にまとまって咲いているようなスミレは見たことがないが、アスファルトとコンクリート塀の境に群生するものをよく見かけるような気がする。弾けた種子が雨に流されてたどり着いたという結果もあるだろうが、アリと巧い共生関係を結んでいるという話を最近になって知った。謙虚なだけでなく、可憐なだけでなく、DNAに刻まれた戦略をもって自身の植生を維持・拡大しているのだった。そうしてその姿に、堅実さと逞しさも感じるようになった。


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    色々と工夫をしたいとは思いつつも、毎年同じような講義をどうしても繰り返している。科目にはそれを学ぶべき人生の時期がある。できるだけ言葉少なに、ひっそりとその学ぶべき季節を告げているようなつもりで講義をやっているのだけど、それだと植物よりも受け身のようだ。少しだけでもより興味を引き立てられるような組み立てと展開・戦略も考えたいと思うようになっている。


    例えば近い将来、理工系として研究や開発に携わるのであれば、どうしても数学は要るだろう。1年の時には、微積分と常微分方程式、線形代数;2年次には、偏微分方程式とフーリエ級数、複素関数論;3年次には、ベクトル解析とフーリエ変換、ラプラス変換;4年生になってこれらの総復習とできれば特殊関数論くらいをやっておけば一応間に合うのではないだろうか。数学が苦手な私の経験からすると、授業に合わせるだけでなく独習をどんどんやって欲しい。そうすることで、自分でものを考えるための技量が身につくと思う。定期試験や大学院入試だけで自身の理解を誤摩化してはいけない。学部の4年間が終わった後には、もはや自分で自分を教育する以外に方法はない。自分自身で自分だけのリズムを確立する以外にないということである。
    もしもあなたが、大学院生なのに数学を未だ修めていないと思っているのならば、それは幸いなことである。3ヶ月で1年分のリズムを刻めばたった1年で全てが解決することになる。そのような人からは見えにくい隠れた努力は絶対に実を結ぶ、はずである。


A violet by a mossy stone
Half hidden from the eye!
Fair as a star, when only one
Is shining in the sky
(苔むす石の傍らに菫がひとつ
人々の目から隠れるように!
大空にただひとつ輝いている時の
その星のように美しい)

(T. Y., Fukaeminami-machi, 11 avril 2009)