教員のエッセイ
「大学院生の頃(下)」
質量分析器は夜間も真空を引き続けていた。真空度をよくするためにベーキング(真空容器にヒーターを巻いて真空壁の温度を上げた状態で真空を引き続ける)という操作をやっていたので、朝研究室に着くとそのヒーターの電源を落とし、扇風機で冷ますのが最初にやる仕事だった。論文を読みながら時間を見計らって、少し離れた「やま」と呼んでいたエリアにある4つの建物のうちのひとつである加速器棟に向かう。「お早うございます」と元気に挨拶をして、そこに設置されていた軽イオン源の真空引きを開始する。こちらは拡散ポンプだったので油が暖まるまでにちょうど2時間程度必要であった。設備も建物も隣の研究室のものであった。今から考えるとかなり不思議であるが、借り物でありながら、独占的に使わせてもらっていた。先生らがうまく話をつけてくださっていたということだろう、多分。
南仏ニーム近郊の地中海。砂の城は友人のお嬢さん作。
論文読みに区切りをつけて、昇温脱離分析を開始する。試料は前の日にヘリウムをイオン注入しておいた銅の試料である。一定の昇温速度で加熱しつつ、ヘリウムの放出速度に比例するヘリウムの分圧を温度の関数としてチャートに記録するのである(ヘリウム放出曲線と呼んでいた)。PID制御を使っていたが温度が高くなると設定パラメータを多少操作してやる必要があった。今なら全てパソコンで制御も記録もできるような実験であるが、ずっとその場に立って装置の働きにつきあっていた。分析が終わった後に加速器棟に移動し、真空の本引きを開始する。試料照射チェンバーに翌日の分析のための銅試料をセットし、こちらも真空引きを開始する。昼食後、液体窒素を下げて加速器棟に向かう。夏の暑い時期には麦藁帽子をかぶって、ふざけて容器と一緒にくるくると回ったりしながらトボトボ歩いていたが、その光景は近くの研究所の窓からよく見えていたらしい(後に何人かの若い美人の秘書さんからそのような思い出話を聞かされ、自らの赤面を楽しんだ)。フィラメント電流を徐々に上げ、ヘリウムガスを導入し放電を開始する。引き出し電圧をかけてビームを引き出し、電流が安定するのを待つ。さらに、照射チェンバーのトラップに液体窒素を入れて真空がよくなるのを待ち、イオン注入を開始する。その後試料を持って分析装置のある部屋に戻り、分析後の試料と交換し、こちらの真空引きを開始する。その後、加速器棟にまた行って拡散ポンプを停止、冷えるのを待つのに1時間を要したか。こうして思い出すと本当に無駄の多いことをしていた。統合した装置を作っていたら、三倍くらいの速さで実験は進んでいたことだろう。しかし、こうやって毎日1つのヘリウム放出曲線を獲得していくのが私の実験の基本であった。これに加えて照射用試料の切り出しと研磨・真空焼鈍、照射後・昇温後の試料に対する走査型電子顕微鏡SEMを使った表面観察・写真撮影と現像をやっていた。
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実験をやりはじめるとそれしかできなくなる。論文も直接関係するものしか読まなくなる。ある程度は仕方のないことだと思うが、実験データを出すということに加えて、自分のスキルあるいは能力全般を向上させるということを同時に考えて欲しいと思う。自分で自分のためのカリキュラムを組むのである。私の場合には「照射損傷」と「金属材料学」、「金属物理学」関連の書籍を、手に入る限りのものは次々に読んでいた(裏ではランダウ・リフシッツの理論物理学教程、そしてヘーゲルの「論理学」を読んでいたが、かじるくらいしかできなかった)。修士の授業では他専攻であったが金属材料系の科目を履修し、点欠陥や転位、高圧電子顕微鏡に関連する照射効果に関する古典的な論文を一緒に読ませていただいた。自分の研究を少し離れた視点から見る上で役に立ったと思う。また、非常に洗練された授業をされているという印象をもち、彼らの学問の歴史の奥深さを感じた。英語についてもTOEIC等の受験を勧めたい。私の先輩方はよく勉強されておられて、流暢に英語をあやつっていた。私はというと、ちゃんとやらなかったので今でも苦労し、在学時には先生にご迷惑をかけた。幾つかの教材は買い込んでやっていたが、一番いいのは、実際に英語を書いたり話したりすることであり、そういう機会を見つけることだと思う。大学院生の時期にはできなかったが国際会議で外国に友人ができ、メールのやり取りや、会議の運営、論文審査に関わるようになって、必要に迫られて実物教育で勉強をしたと思っている。留学生にいい友人を捜すというのもよいだろう。でも、勉強だけだとどうしても疲れる。ミニトマトや枝豆を栽培するのもいいが、私は時間を見つけてよく美術館に出かけ古典的な名画に意識的にふれた(小学校と中学校の時期に、最も得意だったのが図工と美術であった。これだけはクラスでも学年でも一番だったと自慢できる)。後日談であるが、欧州の友人らは私が絵画の解説をすると接する態度がガラッと変わった。音楽は時代遅れと言われるが持っていたテープやCDの大半はクラッシックだった(当時の男の子にはめずらしく、小学校高学年までピアノを習っていた。バイエル止まりではなく、その先の白色の教本を修め、ショパンを目指そうとして挫折した)。そのメロディーの幾つかを口笛でしかも大音量で昼間から吹き鳴らしていたと叱られたことがあるが(記憶は定かでないがやっていたかも、ゴメンナサイ)、ご近所には迷惑をかけていたようである。また、加速器棟の裏にあったテニスコートで汗を流すこともあった。修士や博士課程だと自分で気づくのは難しいが、24歳くらいを境にすべからく人体の機能は低下しはじめる。私自身はできなかったが、10年後の自分の健康、特に体重を今から考えてほしい。定期的な運動、そして芸術は健康な人間に必要不可欠である。
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軽イオン源の調子が非常に悪くなり、ビームが出なくなったことがあった。電気系統や冷却水系統、ガス系統を全てチェックするのだがどうしても原因がつかめなかった。ほとんど分解に近いことまでやった。実験が滞り、学会発表もできない時期であった。真空漏れが疑われたが場所の特定ができない。碍子と電極との接合部を中心にアセトンをかけて真空度の変化をチェックした。数週間後に漏洩箇所がようやく見つかった。しかし、これのおかげでイオン源の構造についてはかなり詳しくなることができた。この頃には“Experimental(実験)”は出来上がっていた。修士の時期、実験系であれば、使わせてもらっている装置の主人(Master)になることが絶対に必要である(私の尊敬するある先生は、院生には研究テーマではなくて実験装置を与えていたという)。簡単ではないが、原理にとどまらず全てを身につける努力をしてほしい。
カルビッソンの蝉。日本の蝉よりおとなしい。
実験は順調とは言い難かったが結果は出ていた(“Results”)。問題はその解釈である。ヘリウムの放出には幾つかの形態があることが判明した。色々な種類の表面損傷を伴っていたのだ。絶対温度で表した時に融点Tmに対して0.7Tmくらいでホールの生成を伴う放出が観察された。ホールの直径はヘリウムのイオンの銅中の飛程程度(ヘリウムイオンが銅に打ち込まれた後に進める距離)であった。ホールの表面密度とヘリウムの放出量からホールとなる直前のバブル内圧を求めると一桁ほど平衡圧よりも高いことが分かった。またその放出の熱活性化エネルギーを求めると銅の自己拡散のそれに等しいことが明らかになった。前者に対しては観察されていた数ナノメートルのバブルの平衡圧とほぼ等しいことから、それらの合体によって大きなバブルが形成されてホールになると考察した。後者についてはそのような合体の駆動力は熱平衡空孔であるが故に活性化エネルギーが自己拡散のそれに等しくなるとした。これらが“Discussion”であり、修士論文の中身になった。私自身は満足できる結果であったが、学会発表したものの反響はほとんどなかった。それでも、その内容は国際会議で発表し論文にした(私も書いたけど、直接指導していただいていた先生が書いたと言うべきくらいに真っ赤にしていただけてようやく完成に漕ぎ着けた)。国内での評価はあいかわらずとんと聞こえて来なかった。私自身は博士課程に進学した。銅だけでなく同じ面心立方構造のニッケルや銀に対する実験を進めようと考えていた。自己拡散との関係を明らかにしたかったのである。また、ヘリウムだけでなく、ネオンやアルゴン等の他の希ガスへの展開も考えていた(こちらは実現できなかった)。しかし、横切った一抹の不安は、本当にこのテーマで博士の学位がもらえるのだろうか、ということであった。
サモトラケのニケ、ルーブル美術館。
国際会議に出した論文は査読を通過してジャーナルに掲載された。あと2本くらいは書けるだろうと思いながらも反響の低さに気を揉んでいた。地味な方向に地味な方向に考えてしまう性癖も災いし、研究テーマがダメに思えてくる。あれだけ手を入れた実験装置であってもどうしてもポンコツに思えてしまうようなことがあった。自信が持てず、口笛すら吹けない。自尊心を全く失っていた。そんな時にある一通のエアーメールが届いた。差出人は英国ロンドン大学の著名な教授であった。私も十数通もの彼の論文を読んで輪講でも紹介したことがある偉大な先生である。ヘリウムバブル超格子の研究もされていた。手紙は先の国際会議に出した論文に関するものであった。香港に来ているが大阪に行きたい気分だとの書き出し。ヘリウムバブルの動きに関して彼の関心にマッチする実験をしてもらってありがとうという内容であった。私にとっては、実験を朝早くから夜遅くまで頑張って、内容をちゃんと英語で論文にすれば読んでくれる人がいることが分かった瞬間であった。一人でも読み手がいれば十分だと思った。好きだった女の子からもらった手紙も嬉しかったが、それとは全く別な意味で嬉しい手紙だった。身体が軽くなったことを今でも覚えている(ホルモンの分泌が変わったのだろう)。私くらいの単純な男には非常にいい効き目の薬であった。
その後材料を変えた実験を進めて論文を書いた。母材金属の自己拡散とホール形成との関係は明確になった。最初に投稿したものは“major correction”の返事であったが臆することは全くなく、レフリーからのコメントのことごとく全てに反論する手紙を用意した。指導教官の先生の賛成も頂き、その一回の反撃で論文を通すことができた。先生の「これを通せんようだと学位は難しいぞ」との励ましも効いた。そして、これが私の最初の投稿論文になった。その時期についての記憶はやや曖昧であるが、博士課程の在学期間であった1年と半年を経て神戸商船大学(当時)の助手になった後も、確か半年くらいは母校の研究室で実験を続けさせていただいた(後輩の皆さんには場所を占有しご迷惑をおかけしました)。ある日先生が私を呼び、ある論文の審査依頼が来たから読んでコメントしてみろと言われた。いつものように参考論文も含めて読んだ。こういう立場からの論文の読み方もあることを教わった。これが、私が大学で受けた最後の仕上げの個人授業であったと思う。こういう教育方法もあるのだ。ジャーナルに投稿した論文は全部で4通になり1988年から1992年に掲載された。京都で開催された国際会議に出したものと投稿論文であった。少ないような気もするが、1993年に博士(工学)の学位を論文博士で頂いた(公聴会の時の体温は実は39℃、インフルエンザであった)。
英国ロンドン大学の教授の励ましはその後にもあった。1995年の阪神淡路大震災の数日後に彼からの手紙が届いた。定年退官するが、最後の投稿論文に私の論文を引用したということであった。研究室も自宅も散々な目に遭っていた私にとっては偶然とはいえ他にもとめようのない励ましの手紙になった。論文を読んでくれるだけでなく、引用してくれるひとが現れたのである(しかも大先生が)。彼の論文の一段落が私の修士と博士課程における研究内容の優れた要約になっていた。少なくともここに研究の位置づけをもらった。
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修士課程はともかく博士課程は本来的に孤独なものなのだと思います。研究テーマを確認しながら自分で歩を進める以外にないと思いますが、どこかで「自分を褒める仕掛け」を作ってあげてください。あるいは、見つけておいてあげてください。学位を取るのだというその譲れないあなたの気持ちを大切にするためにです。
我が心は石にあらざれば、転ばすべからざるなり。
我が心は蓆にあらざれば、巻くべからざるなり。
「大学院生の頃」はもう少しだけつづきます。
(T. Y., Fukaeminami-machi, 11 Juin 2007 )