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キャンパスライフ

教員のエッセイ

「大学院生の頃(中)」

 研究テーマを決めるということは世界中で行われている関連する諸研究の中での自分の立つ位置を決めるということである。論文を読んでその論文の位置づけを理解するのと同様に、自分自身の研究の位置づけをしなければならない。しかし、本当に位置づけがもらえるのは研究結果を出して、それを公表した後、すなわち、自身で論文を書いて他の研究者に読んでもらいその意味と意義を認められた後の話である。主観と客観との関係だと考えればよいだろう。研究テーマを決めることとテーマ名を決めることは全く異なる。研究テーマを決めた段階で、将来書く論文の“Introduction(序論)”が頭に浮かばないとすれば、研究テーマを決めたとは言えない。“Introduction”で引用すべき論文が準備できていないとすれば、研究テーマを決めたとは言えない。これらは決して言い過ぎではない。しかし、当時の私には乗り越えなければならない山はまだまだあった。実験技術もそうであったし、発表し書く英語力も決定的に不足していた。それに加えて、その研究テーマで実際に研究を進めるための道具立てや方法論を手にしていないとすれば、研究テーマを決めたとは言えないのであった。ただし、私が研究テーマのことをこのように考えられるようになったのはずっと後になってからである。当時は目の前のことも満足に見えていなかった(それにもかかわらず指導教官だった先生に向かって大きな口をたたいてしまったことが恥ずかしい)。


 現在ならば大学院生であっても研究予算を獲得するための手だてはある。しかし当時そのようなしくみはなかった(あったとしても私がそれを獲得できたとは到底思えないのだが)。願望の中にではなく手の及ぶ範囲の中に道具立てを用意する必要があった。幾つかの実験装置は先輩から後輩に受け継がれており、分析装置であれば共同利用させてもらえるものも存在した。与えてもらった机のあった実験室には先輩が使われていた加熱装置が置かれていた。それは真空排気装置に接続されており、実験系の学生にはおなじみのロータリー・ポンプとターボ分子ポンプとが昼夜を問わず、厭わず、休むことのないリズムを奏で続けていた。赤外線イメージ炉と呼ばれていた加熱炉であったが、鏡面の金が剥げていた。それでも1100℃くらいまでなら昇温可能であり、昇温速度も制御できるものだった。院試が終わった頃に、直接お世話になっていた先生が先輩とともに実験室の奥に眠っていた、ある小さな装置を取り出してこの加熱装置に接続してくださった。四重極質量分析器だった。この装置こそが私の研究を実現させる必要不可欠な道具立てのひとつであり、私の研究の生命線になった。真空中残留ガスの分圧が測れるようになったのだ。


ロアン宮
ストラスブールのロアン宮(Palais Rohan)。
オーストリアからやってきたマリーアントワネットはここからフランスに入った。

 核融合炉材料の分野では、プラズマ対向材料と水素イオンビームとの相互作用に関する研究が盛んに行われていた時代であった。材料としてはグラファイトや高融点金属が候補材料になっていた。先輩にならってそのような研究テーマを選択することも決して不可能ではなかった。しかし、私の選んだ研究テーマは「銅にイオン注入したヘリウムの挙動」であった。銅とヘリウムの組み合わせ。本当に地味な、ぱっとしないテーマであり、指導教官の危惧はもっともなことであった。ただし、文献を読む限り研究の手が届いていないところがあり、後発の者が参加する余地はあった。そして手元にある実験装置で研究することができるテーマであった。そしてこれが一番大切だと思うのであるが、私自身がこれは面白いと思った、思ってしまったのだった。


 ヘリウムは不活性ガスであるが金属中の空孔タイプの欠陥とは強く相互作用し、そこに捕捉されることが格子欠陥の研究から知られていた。どのような原子とも結合性の電子軌道を共有することができないこの孤独な原子は、結晶格子中の原子の穴と言える空孔に落ちると出られなくなってしまう。またヘリウムの原子半径は小さいので、ひとつの空孔に何個も入れる。温度を上げるとそこから出てきて格子間原子として結晶内を移動し表面に到達する、あるいは、別な空孔に落ちることになる。このようなヘリウムと空孔との化学ともいえる小さな世界に魅せられたのだった(コーネルセンらの「超高真空の物理」(岩波書店)にも紹介されていた)。これはヘリウムの密度が低い場合の話であるが、高線量でイオン注入すると数ナノメートル径のヘリウムバブルが形成され、それが超格子構造をとることが話題になっていた。母材が面心立方構造の金属の場合には超格子も面心立方に、体心立方構造の金属ではヘリウムバブルの超格子も体心立方になるというちょっと不思議な話であった(後になって気がついたのであるが雑誌Natureにも論文が掲載されていた)。そのヘリウムバブルの内圧がどのくらいなのか?そして、バブルができても母材中の空孔にはヘリウムが落ち込んでいるのか?空孔とヘリウムのクラスターからバブルができると考えてよいのか?クラスターは動けるのか?というようなことが私にはどんどんと気になるようになってしまったのだった。核融合炉材料の研究の門を叩いたものの、金属格子欠陥の研究に迷い込み、そこが気に入ってしまった。孤独な大学院生が捕捉された瞬間である。


 核融合炉材料研究との兼ね合いはどうするか。ヘリウムは水素が核融合反応を起こすと出てくるので理由はつけられるが、銅はどうしたものか。実際には融点がさほど高く無いのでその気になれば加熱装置の中で溶かしてしまうことができると考えたのだった。さすがに金属が液体になってしまえばヘリウムは全部出てしまうだろうと。そして、照射効果やその回復効果がよく研究されているから銅を選択したということにした。指導教官だった先生は話を聞いてくださった後に、銅とベリリウムとの合金の話を聞かせてくれた。表面に原子番号の小さいベリリウムが析出しやすく熱伝導のよい銅が母材なので核融合炉の部位によっては使えるところがあるのではないかと(表面原子の原子番号が小さいとプラズマに混入しても放射によるエネルギー損失が低減される)。今なら話題性のある応用研究の中でやりたい基礎研究を続けるというようなことも考えられるのだが、後でやりますと言ってしまい、後悔することになった。青いとしか言いようがない。このようにことあるごとに、地味な方向に、地味な方向に進んでしまうのは幼少の頃からの性癖でもあった。今頃になってようやく外部に対してアピールする能力を身につけたいと思いはじめるようになったのではあるが。



(T. Y., Fukaeminami-machi, 8 Juin 2007 )