教員のエッセイ
「ケバブをユフカで」
HQ電車の初乗りが七拾円だった頃のこと。古びたタイルでできた小さな台所と一間の押入がついた四畳半のアパートから、押入だけでなく、三畳の台所もある六畳間に引っ越した。もの凄く広く感じ、贅沢にすら思えた。靴だけはそこそこのものを履いていたが、シャツもズボンもいつもよれよれだった(今もか?)。確か、「公認」とか「公設」とかいう名前のついた市場でよく食料を調達していた。そこで揚げたてのコロッケとかミンチカツを買ってきて、刻んだキャベツにのせ、ウスターソースをドバドバとかける。あるいはアジフライの時もあったが、こっちは冷めても美味しい。添えるのは、ジャガイモとタマネギ、ふえるワカメを具にしたみそ汁、そして電気炊飯器からよそう炊きたてのホカホカご飯、このあたりが主食だった。当時、いわゆる「ファースト・フード」には、「美味しい高級品」という全く誤ったイメージを持っていたような気がする。学費は年間9万円だった。私の一年上の学年はこれの半額だったはずであり、その後倍増していったように記憶している。二十年くらい前の、関西のある一人住まいの大学生の姿である(典型的とは言えないかも知れない)。
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さて、フランスの学生であるが、ほとんどは貧乏である。主キャンパスからは離れた郊外の研究所に居るので、知り合いになれたのは大学院生ばかりであるが、いずれも金持ちには見えない。カップルで住んでいる院生も多いが、経済的な理由もかなりあるように見うけられる。しかし、研究所のレストランならば、デザートとコーヒーをつけて腹一杯食べても2ユーロくらい。日替わり定食(plat du jour)と世界の定食(plat du monde)、グリル定食(grillé)の三つからひとつを選び、チーズやサラダも好きなものを好きなだけもらうシステムになっているのであるが、一日に必要な栄養は、ここでの昼食だけで摂取できそうである。バゲット(いわゆるフランスパン)は、0.50ユーロくらいで一本が買える。朝食にはジャムとバターを塗って(tartine; タルティーヌと呼ばれる)ショコラ・ショーと一緒に、夕食にはハムかチーズくらいを乗せれば、最も安く過ごせるだろう。学費は今でも年間1万円くらいのようである(ちなみにドイツは今でも只)。
「学費に見合うだけの教育をしてもらったかな?」などと、どうしても考えてしまうのであるが、多少なりともこのような論を進めると、その矛先がたちまち自分に向くので、別の機会にじっくりと反省したい。
さて、ごく一般的な話として、フランス人の多くは、あるハンバーガー・ショップを嫌っている。工場でつくられる、いつでもどこでも同じ味のする食べ物全般を彼らは好まない。「プラスチックのようなあの白っぽい固体はチーズではない」と。嗜好の問題なので必ずや反論は出てくると思うが、こちらの二千種類ともいわれるチーズ、あるいはその文化を念頭におけば、もっともな主張だと思う。そんなわけで、バゲットよりももう少ししっかりした物が食べたくなったとき、知り合いの院生は「ケバブ・レストラン」に行く。こっちの同僚達も、例えば、実験の都合で夕飯を自宅以外でとる時には、必ず決まってそこに行く。多少割安であるのと、サービスが早いのがその主たる理由である。私は味覚的にもこのケバブが気に入っており、「ソースを少し工夫すれば、日本でも大ブレークしそうだな。全国チェーン店の社長になれないかな・・・?」などと、日々思案している(照り焼きソースか、あるいは味噌もいいかも?)。
こちらで「ケバブ」と言うと、大抵は「ドネル・ケバブ」を意味する。「ケバブ」をサンドイッチのようにしてパンに挟んで食べるものである。本場のトルコ料理としては、「ケバブ」とは、広く「焼き肉料理」一般を意味していると私は理解している。薄く切った牛肉やマトン、鶏肉を、それぞれ分厚く重ねて、大きな串に突き刺さして調理するのであるが、加熱は下からではなくて横からである。したがって、その串は鉛直方向に置かれており回転を続けるようになっている。表面の焼けたところから削ぎ取るように切り出して行くのであるが、一日の終わりには芯だけが残ることになる。
写真1 手前から鶏肉、マトン、牛肉。奥でおばさんがつくっているのはユフカ。
おばさんの店のグリルはこの辺りでは最も大きい、繁盛しているのである。
この側面からの加熱というのが優れもので、肉汁がたれても炎(あるいは高温部)に触れないため、煙が出ないのである。店によっては伝統的な包丁で切り出しているが、ほとんどの店では電動の円形ノコギリのような道具を使ってバリカンのような感覚で削っている。このような焼き肉に、キャベツやトマト、タマネギを合わせてパンに挟み、ヨーグルトソースやチリペッパーで味を調えるのがこちらのドネル・ケバブである。直径25 cmくらいの円形の平たいパンを、直径が出るように半分に切り、中身を裂いて詰めるようにして出来上がりとなる(「おでんの具」だと、油揚げを使った巾着に詰めものをして縛る直前のイメージか)。ここでは一個3.50ユーロであるが、ドイツでは少し安くて3ユーロが相場になっている。「フランスの大学生の身体の半分はケバブで出来ているんだよ」とは、知り合いの弁である。一見小さく見えるのだけど、実際に食べると、次の食事を軽めにしようと考えるくらいのボリュームがある。
写真2 左端がドネル・ケバブで右端がユフカ。
ドネル・ケバブよりも少し高くなるのであるが、私が更に気に入っているのはユフカである。小麦粉を溶いてクレープのように薄く延ばして焼いた直径60 cmくらいの生地で焼き肉と野菜を巻いたものである。トルコ料理としては、ユフカとはこのような生地自体を意味していると思う。こっちの友人は「トルコ風クレープ」と呼んでいる(クレープはフランスのブルターニュ地方の郷土料理である。二千年以上の歴史があると思う。大阪でお好み焼きが主食になるように、クレープも歴とした主食であり、決して「おやつ」ではないし、髭面のおじさんも食べる)。形からは春巻きに近いかな、とも思ったが、サイズはそれよりもっと大きい。日本で言えば、巻き寿司、それも太巻きだろうか。写真の店のおばさんは、私の姿を見かけると、何も聞かずにユフカを作り始めるようになったので、ドネル・ケバブが食べたい時には別の店に行くしかない。そして、その味も店によって少しずつ異なるのであった。
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今やケバブは、大ブリテン島を含むヨーロッパ各国を席巻し、アメリカ大陸や、オーストラリア大陸にも広まっていると聞く。日本にも店は幾つかできているらしいが、直に見かけたことはない。ただ、何年か前にある書物で読んだことがあるだけである(「書物」と言っても『美*しんぼ』)。
果たして、カレーやラーメンに続いて、ケバブは新しい「国民食」として、日本に広まるだろうか?そうなるために必要とされる改良点は何だろう、その決め手となるソースは何だろう?「なんとか丼」にとって代わる秘策は何か?将来の社長としては、非常に気になるところである。それはさておき、オーストラリアのケバブは、やはりマトンが主流なのだろうか?そして、このような各国のケバブと、本場トルコのケバブとに違いはあるのだろうか?こちらも気になるところである。
ちなみに世界三大料理と言えば、それはフランス料理と中華料理、そして、トルコ料理を指す。この事実だけを見ても、英語だけで全てを語ることは到底出来ない。更に問題なのは、それだけだとちっとも美味しくないのである。
(T.Y., Strasbourg, 19 Janvier 2004)