【落日の帝国】
トルコの歴史G
16世紀後半
スレイマン大帝の最大の敵はスペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)だったが、フランスと同盟を結ぶことでその動きを封じ込めていた。
もはや帝国の繁栄を阻むものはなにもないように思えたが、血統存続のために設置したハレムが災いし、政治の腐敗と混乱を招いた。
17世紀
衰退の兆しはより顕著。
1622年
軍の中枢を担うイエニチェリとスルタンが対立、スルタンが殺害された。
1633年
2度目のウィーン包囲に失敗し(オスマン軍の撤退に沸くウィーン市民はトルコのシンボルである新月をかたどったパン、すなわちクロワッサンを食してこれを祝ったという)、スルタンの栄光は地に堕ちた。ウィーンでの失態はオスマン帝国と敵対する勢力を勇気づけ、ヴェネツィア、オーストリア、ポーランド、ロシアが同盟を結び戦いを挑んできた。
この戦争でも劣勢に終わったオスマン帝国は、はなはだ不利なカルロヴィッツ講和条約に調印せざるを得ず、ハンガリーやクロアチアなどいくつかの領土を失った。
18世紀初頭
即位したアフメット3世はこのような状況を改善すべく、ヨーロッパ社会に歩み寄りの態度を見せ、宮廷でフランス趣味の文字や芸術がもてはやされた。巷ではオランダで改良、輸入されたチューリップが大流行し、西欧文化の華やかな香りをまき散らした(そのため、この時代はチューリップ時代と呼ばれる)。
一方、新興国ロシアは18世紀前半にピョートル大帝のもとで飛躍的な発展を遂げ、女帝エカテリーナ2世時代には欧州列強に並ぶ力を蓄えるに至った。