【オスマン・トルコの時代】
トルコの歴史F
1453年5月29日
1000年の長きにわたったビザンティン帝国の歴史に終止符が打たれた。
メフメット2世は三日月と星の描かれた新月旗(トルコ国旗の法制化は1923年)を掲げ、白馬にまたがってコンスタンテイノープルに入城。以後、この地はイスタンブールと改称され、オスマン・トルコの帝都と定められた。
帝国の被征服民に対する宗教政策は比較的寛大で.人々の信仰の自由は保証された。ギリシア正教会の多くはモスクに改修されたが,一部はキリスト教徒のためにそのまま残された。これはイスラム教義の恩恵というより、荒廃した帝都を再建しようという政治的、経済的な意図によるものだ。もっとも、宗教の自由は許されたとしても、政治的支配権や法律制定権はイスラム教徒が独占した。
ファティフ(征服者)の称号を授かったメフメット2世はなおも領土の拡大に情熱を燃やしぺロポネソス半島とバルカン半島を制圧、黒海周辺隣国も支配下に収め、黒海はトルコの内海となった。
16世紀前半
勇猛かつ博学なセリム1世が即位し、イランのサファヴィー王朝、シリア.エジプトのマムルーク王朝を撃破、アラビアのメッカとメディナの聖地を手に入れた。預言者マホメットの後継者にしてイスラム世界の精神的支柱である“カリフ”からその称号と権限を受け継いだことがポイントである。
オスマン帝国の歴代君主は、ムラート1世の代より最高権力者としての、“スルタン”の称号を用いてきたが、これで名実ともにイスラム社会の頂点に君臨する尊厳が得られた。
続くスレイマン大帝の世に、オスマン・トルコは史上空前の繁栄期を迎え、アジア、アフリカ、ヨーロッパの3大陸にまたがる大版図を築き上げた。