【ビザンティン帝国の崩壊】
トルコの歴史E
1261年
ラテン帝国に組み込まれたコンスタンティノープルは、再びビザンティン帝国の首都に返り咲いたが、もはや帝国に衰退を止めるだけの力はなかった。
1299年
代わって台頭してきたのが、乱立するトルコ系君侯国のなかの一勢力、オスマン・トルコだった。オスマン族はオグズ族のなかでも優秀な一派で、族長エルトゥールルを旗頭に西進を開始。
その息子、オスマン・ベイによって建国宣言がなされ、オスマン王朝が成立。王国の快進撃が始まった。
1308年
ルーム・セルジューク朝も蒙古軍の襲来により存亡の危機に見舞われ、崩壊した。
14世紀後半
ムラート1世の時代にはバルカン半島に侵出
1362年
ビザンティン第2の都市エディルネを攻略、ブルサから遷都。イェニチェリ(近衛兵団)もこの頃に組織。
15世紀以降
被征服地のキリスト教民から徴集した少年たちを、イスラムに忠誠を誓うエリート軍団に育て上げた。オスマン・トルコは15世紀半ばまでにアナトリアの大半を掌握、ビザンティン帝国はコンスタンティノープル周辺のみを領有する小国家と成り果てた。
1452年
オスマン帝国のメフメット2世は、ついにコンスタンティノープルヘの進撃を開始。だが、城塞の守りは予想以上に堅く、攻略は困難を極めた。
そこでオスマン側は艦隊を陸揚げし、夜陰に乗じて防御の弱い金角湾に侵入させるという奇想天外な作戦に出た。夜が明け、突如背後に出現した艦隊にビザンティン軍は戦意を喪失。