紀元前6世紀半ば
アナトリアはペルシア帝国の支配下に入り、小王国はことごとく崩壊。
紀元前334年
無敵と思われたペルシア帝国もマケドニアのアレクサンダー大王によって滅ぼされた。
大王の東方遠征は、ギリシア世界とオリエント世界の文化的接触をもたらし、新時代のヘレニズム文化を招来。大王の死後は、その都下たちが領土を分割し、アナトリア西部にベルガモン王国、北東部にボントス王国が建国され、ピチュニア、カッパドキアなどの小国家が次々と誕生。
なかでもイオニア、アイオリス地方を領有するぺルガモン王国は、ギリシア文化の良き理解者となり、国内に数多くの神殿や劇場を建設。
紀元前2世紀
ペルガモン王国もローマ帝国の版図に組み込まれた。
紀元前30年頃
アナトリアの小国はすべてローマの支配下に入った。アナトリアのギリシア人都市はハドリアヌス帝時代に絶頂期を迎えたが、263年以来の蛮族の侵入により崩壊。
4世紀初め
ローマのコンスタンティヌス帝によりキリスト教が公認されると、帝国の首都がビザンティン(現在のイスタンブール)に移され、コンスタンティノープルと改名。
395年
ローマ帝国が東西に分裂、コンスタンティノープルは東ローマ帝国の首都となった。
476年〜6世紀
西ローマ帝国が蛮族によって滅ぼされ、東ローマ帝国はビザンティン帝国と呼ばれるようになる。ビザンティン帝国は6世紀のユスティニアヌス帝時代に最盛期を迎え、その版図はエジプト、シリアからイタリア、スペイン南部にまで及んだ。
トルコの歴史B
【ペルシア帝国とローマ帝国の支配】