教員のエッセイ
「受験勉強の頃(上):量より質か、質より量か」
チームの足を引っ張りながらも、高校3年の7月中旬までは、ハンドボールを懸命にやっていた。そんなこともあり、大学受験のための特別な勉強を始めたのは夏休みに入ってからだったように覚えている。その高校は、四国の田舎町では進学校として知られていたところで、瀬戸内海燧灘沿岸にほど近く、大きな楠の木の並木がある一宮神社に隣接し、赤石山系の見晴らしも非常によかった。
夏休みのかなりの期間にわたって、その高校の先生方は、私たち生徒に補習授業をやってくれていた。その頃には考えたこともなかったが、おそらく何の報酬もない授業をやってくれていたのだろう。それは朝8時30分から昼過ぎまで続いたように思う。
そのころまでに私自身は、密かにではあるが、大学の教官か研究者として身を立てたいと考えるようになっていた。親友にも、両親にも言っていなかった。「それは無理ですよ」という答えしか戻ってこないことは十分に分かっていたからである。とにかく、人よりも勉強が遅れているのだから、それに追いつくためには、人よりもたくさん勉強するしかない、という単純な考察に基づいて、朝の5時前に起きて、学校で勉強することにした。登下校は自転車、片道平均して30分くらいだったか。8時を過ぎると級友が学校にやってくるのであるが、それまでの2時間半くらいの間に、英文和訳の問題集を2〜3ページの速さでやっていたように思う。母親が毎朝つくってくれた弁当は、この時に平らげ、補習授業に望む。補習授業の後にはそれに関係することを数時間ですませ、友人と近くの商店街のどこかで昼食を取るのが楽しみだった。さらに、午後2時から7時くらいまで、つづけて勉強していたように思う。その時にやっていたのは、とにかく机の前に座って勉強時間を増やすことだけだった。級友と比べて、それほどまでに勉強は遅れていた。家に戻ると急いで食事と入浴、8時過ぎには自分の部屋で机に向かい、2時くらいまでやっていただろうか。睡眠時間は3時間くらい。今ではとても無理。それでもなんとか夏休みの間、このペースを守れたのは、部活のおかげだったのかも知れない。一日、13時間。一日の半分以上を受験勉強に充てようとしただけである。
この高校は先生が非常に熱心で、週に1回、全校あげての漢字の書き取りテストがあった。1年生の時にその出来が悪く、担任の先生に呼び出されたことを覚えている。「幾何学」という字が書けなかったのである。父親の買ってくれていた子供向けの百科事典で、小学生の頃からピタゴラスのことはよく知っているつもりであったし、コンパスや定規の使い方も人並みには出来ていたように思うのだけど、この時には確かに書けなかった。また、正規の授業とは別に毎日「解法のテクニック」という数学の問題集を1頁分やってくる約束になっていたのであるが、クラスで私ともう一人くらいが滞りがちであった。この問題集の軽薄な名前が気に入らなかったのはその通りであったが、私が言うと説得力はなかった。高校に入って最初の実力試験の時、数学が19点しかなかった。点数とそれを得点とする人数との分布が公表されたのであるが、ほぼ満点を取るような生徒もいるなかで、30点以下のものが35名とだけ記されていた(そのおかげで、19点以下が居たのか居なかったのか、今でも謎のままであり、できれば謎のままにしておきたい)。
こんなわけだから、どうして13時間なのか?は明白であった。単にツケを払っていたに過ぎない。
40歳を越えた今では、研究に関しても、「量より質」という言葉の意味はある程度理解できるようになったつもりである。しかし、それはある程度までの勉強の量が前提になっているということだと思う。どんなことであっても、(どんなにつまらないことに見えようとも)あるものを考えようとする時に、そのことがらに関して歴史的に積み上げられたことは全て前提になるからである。こうなると、量より質か、質より量か、という問いかけ自身が意味を失うことになるだろう(質も量も必要なのだ)。
この数ヶ月間、フランスで暮らしているが、こちらの博士課程の学生にこの13時間の話をすると、バカンスをどうするのか?とか、ガールフレンドがどうして許すのか?とか、いろいろと質問を受けることになる。入学に関しては、フランスの大学は完全に大衆化している。しかし、大学入学当時の彼ら彼女らの級友の3分の2くらいは最終卒業までに学校を去っている。単位が取れないのである。
つづく
(T. Y., Strasbourg, 7. Dec. 2003)